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孤独な夢想者の散歩

交通費を浮かす窮余の策で、四条河原町からの帰りを歩くことが多くなった。

 

 

歓楽街に始まり、文教地区に至る。30分と少しの道のりだが、流れていく風景には、この街のすべてが映っている。クルマ社会で人生の大半を送ってきたけれど、いやそれだけにだろうか、「京都は歩いてこそ」と強く感じる。

 

 

「北上して東へ」という単純な道のりにも、様々なプランがある。素直に四条通を一気に東に出て、そのまま東大路通りを北上しても別に構いはしない。だが、わざわざ歩いて帰るには、正直趣きに欠けている。歩くのなら、歩くなりの意味がある道を選ばなくてはならない。

 

静かに穏やかに帰りたい日は、鴨川沿いに北上し、丸太町通を超えた適当なところで東に入るに尽きる。

桜の季節であれば、左岸へ渡って、京阪の真上を歩くのがいい。出発してしばらくは、右手に花街の風情も愉しめる。ただ、川沿いの心地よさを味わうなら、しばらくは右岸を進み、荒神橋あたりで渡りたい。道幅が広いわりに夜は人も少なく、景観は川を越えて東山連峰へとひらけている。私は川の左側の住人だが、散歩道としては、右側に軍配を挙げたい。

 

 

いろいろなものが見たい日は、敢えて高瀬川沿いに木屋町通を抜けていく。

3mごとにキャバ嬢とすれ違い、1mおきに客引きが声を掛けてくる。水商売、酔っ払い、その中を押し通るタクシー…夜の木屋町にあっては、むしろ素面と正気の人を見つけるほうが至難の業だ。せめて煙草ぐらいはふかしておかないとサマにならないかなあなんて考えるが、そんなことをしても、田舎者の野暮ったさに拍車をかけるだけのことかもしれない。いろいろな意味で、歩いている私は、興とも狂ともつかないこのカルチャーの外に立っている。

三条通を越えると徐々に店構えも落ち着きを取り戻し、二条通まで来ると、高瀬川が鴨川に合流した途端に「リッツカールトン」などと澄まし顔を決め込むようになる。あとは鴨川に沿って、静かで穏やかな道のりが待っている。

 

 

京都も今年が最後なのに、こう素敵なところばかり感じられては別れるに別れられなくなってしまうそうだ。

孤独な散歩者の夢想 (新潮文庫)

孤独な散歩者の夢想 (新潮文庫)

 

 

千年の愛人 —田舎者と7年目の京都—

 さて、愛人というのは身分なんだろうか、それとも、職業なんだろうか。そもそも、いつごろからある言葉なんだろうか。

 

 

 「妾」という日本語もあるし、そもそも「愛人」は中国語では「恋人」という意味の言葉だ。これはなんだか変だ。

 

 

 いや、今は「愛人とは何か」について話したいわけではない。そもそも私が何を語れるわけでもない。30年後くらいにもう一度考えることにしよう。

 

 

 開花の遅さが幸いして、今年の桜はなんとか入学式に間に合った。普段ならちょうど春休みのあたりで見頃を迎えるのだが、観光客のみなさんには可哀想なことだと思う。

 

 

 京都に住んでもう7年目を迎える。人生の1/4以上がここで過ぎていったわけだが、この街への感情というものは一貫して、曰く言いがたい。

 

 正直、骨を埋める場所とは思えないが、一刻も早く出たいとも思えない。そろそろ暇乞いを、と思うやいなや、この街の澄まし顔は不意な流し目を送ってきたりする。

 

 だからと言って、いつまで経っても私はよそ者でしかないのだ。京都人たるには「6世代以上在住」という厳しい条件が課されている。ローマ帝国だって、25年兵役を務めれば属州民に市民権を付与したというのに。滋賀県民が何百年水を提供しようと、彼らが京都人となることはないのである(ちなみに琵琶湖からの取水口は当然滋賀県側にあるが、疎水含め全て京都市水道局の管轄となっている)。それは分かっていても、どうせならあともう少し、眺めていたい気が沸いてきてしまう。

 

私にとって、京都はそんな街である。

 

 

 素敵な喫茶店(断じて教えない)がたくさんあったり、気の利いた散歩道(断じて教えない)が身近にあったり、流し目に釣られて、この春もふらふら出歩いている。この街と自分とはどんな関係なんだろう、などということが頭をよぎったとき、いちばんしっくり来た答えが「愛人」だった。

 

 「友達」というほど気軽な相手でもないし、「家族」「恋人」などというほど近しくもない。さっき言ったように、この街は私を心から受け止めはしないだろう。でも、片思いというほど一方的な間柄でもないとも思うのだ。この街の良さは私に対して閉ざされているわけではないし、そして、受け止めないわりには、相性よく楽しく時間が過ごせる。とすると、私は京都「で」ではなくて、京都「と」散歩し、そしてコーヒーを飲んでいたのかもしれない。なんと贅沢な経験であることか。

 

 

 しかし、おそらくあと1年のうちには、この街とも別れなくてはならない。哲学の道を散歩するのは楽しいけれど、このまま歩き続けると、数年以内に文字通り骨を埋めることになる。「自らの生の促進は人間の完全義務である」とカント先生もおっしゃっている。なまくらな弟子が1人いなくなったところで、教えには忠実なのだからカント先生も怒るまい。

 

 

 コーヒーのフィルターが切れたのでコンビニへ出かけたら、鴨川へと続く西向きの道に、遠く薄紅色がさしていた。

 

 こういうことをしれっと、抜き打ちでしかけてくるのだ。

 

 本当に京都は、ずるい。 

寝たけれども寝たけれども

ねないこ、だれだ?

私である。

 

 

コタツだの学部棟だのでは自由自在に意識を飛ばせるのに、どうしてベッドという本来寝るべき空間ではなかなか寝付けないのか。

気になって夜も眠れない。

 

 

寝付きが悪い癖に、寝始めると長くて、しかも睡眠不足が露骨にパフォーマンスに影響する。挙げ句に夜型で、気が付けば時計が12時を回っている。そんなもんで、予定のある前日にどう寝るかはまさに死活問題だ。

 

 

いよいよ困って、先日、「ヨガで睡眠導入」というのをウリにしたアプリを落としてみた。最近は瞑想がトレンドらしいし、たまには流行にも乗ってみるのも悪くない。

ヨガだからといって絶食したり口から火を噴いたりということを要求することはなく、することといえば、布団に寝っ転がってただただ音声の指示に従うだけ。簡単で良い。簡単なストレッチから始まり、あとはイメージトレーニングをひたすらこなしていくというメニューである。

 

部屋の灯りを落とし、枕元にスマホを置き静かに横になる。時間は既に深夜2時を回っている。

オリエンタルなBGMとともに指示が流れてくる。察するに脱力して呼吸を静かに整えることが効能のメインなんだろう、と、お姉さんの指示通りに意識を背中やらまぶたやらに向けながら思う。つまりは一切集中できていない。

 

 

それくらいならいいのだが、中盤になって、お姉さんの声が一言。

 

「あなたの存在の本質へと意識を深く向けていきましょう」

 

「存在」…「本質」…「意識」…落ち着きかけた思考が、うなりを上げて駆動しはじめるのが分かる。あなたの存在の「本質」って何…そしてその「存在の本質」へ意識を向けている「私」は誰なんだ?ああ、もやもやして寝られない…

 

 

多文化共生の時代、ヨガアプリにも「哲学徒」という可能性を踏まえた開発が求められる。

悲しきイエスマン

お前のどこがイエスマンなんだ、基本何かと喧嘩してるじゃないか。早速そんな声が飛んできそうだ。

 

ところがどっこい、今日の私はまごうことなきイエスマンだった。何を言われても、何を聞かれても「はい」「はい」と応じるばかり。自分の意見を言おうにも、「いいえ」を言うことすらままならない。院試の面接のようである。

 

では、謙虚になったのか。それは来世を待たなくてはならない。残念なことだ。

 

正確に言えば、今日の私は"Ja"というばかりで、"Nein"を言おうとも何を聞かれているのかさっぱり分からなかった。私の口をふさいだもの、それは、なんのことはない「言葉の壁」だった。

 

留学生の後輩(良く分からない概念だが実際そうなんだからしょうがない)に誘われて、ドイツ語のおしゃべりサークルに参加してきた。

ドイツ語は日常的に接している(≠読める)わけだが、いかんせん相手にしているのが18世紀の小難しいおじさんである。道を尋ねることはおろか、自己紹介もできるか怪しい。それじゃ面白くない、と珍しく勇気を出して、知らない人の輪に飛び込んできたわけだ。

 

吉田南に集会所への通り抜け以外でやってきたのは久しぶりだ。実に2年ぶりである。泣きながら語学の単位を集め、教授に土下座しながらレポートを提出していたのがついこの間のことのようだ。この間のことなんだけど。

その間にもぐろおばる化推進の流れに従って、キャンパスの様子は大きく変わっていた。場所として指定されていたのが「国際高等教育院棟」という施設なのだが、なんとまあほぼ語学教育のために建てられたものだとか。それなら高校でもっと語学教育したらいいじゃん…とも思うのだが、今はそれはどうでもいい。血税をふんだんに使った、京大とは思えないオシャレで先進的な施設である。

 

その後輩がもちろんネイティブで、他の参加者は私と同じようにドイツ語会話を鍛えたいというような人だった。かたやこないだまでドイツに留学していて、かたや国のプログラムで今度ドイツ留学するというような顔ぶれ。文学研究科、圧倒的不利である。

 

一体何年ドイツ語をやっているのかと勉強不足を海よりも深く反省する一方、ただただ「ヤー」「ヤー」では芸がない。これではインコかチャゲアスである。知ってる表現と語彙でやったるわい…と開き直って、インチキなドイツ語を振り回してみた。カントが聞いたら第一批判でぶん殴ってきそうな暴挙だが、コミュニケーションは案外成り立つもんだ。いや、これでいいのかもしれない。よくはないか。

 

今度今日の顔ぶれでカラオケに行くことになりそうなので、それも楽しみにしている。

やはり言葉は「喋る」のが必要であると痛感した、修士1年の冬だった。

 

 

ある正月のスケッチ

我が家の初詣は正月の2日、日光に行くのがお決まりとなっている。

 

 

田舎者なのでどこかへ行くというと迷うことなく車であって、ハンドルを握っているのは、始めから終わりまで父だった。近年は私が免許を取ったために、少しずつ不肖の長男に運転席を譲りつつある。ただしこの長男は父の土地勘と反射神経を一切受け継がなかったため、せっかく居眠りを始めても、要所要所で息子に起こされてしまうのである。

 

「道が混むから早めに行くぞ」などと言っていても、結局家を出るのはいつも10時過ぎになる。鹿沼インターから日光宇都宮道路まで、そう混まずに来た。それをいいことに、なにも考えずに日光インターで降りたのが間違いだった。下道が動かない。普段ならあり得ない光景だが、正月は正月だし日光は日光ということだろう。

 

輪王寺側から回って、東照宮二荒山神社へと歩いて行く。今年は暖かいのだろうか、雪が全く無い。「ふくーよこいこい」という例のヤツが、境内に無限ループしている。東照宮の門前では、今年も笛売りのじいさんが健在だった。あのウグイス笛の音を聞かなければ、どうしても物足りなさを感じる。まああと何年聞けるか分からないが(といってもう20年は聞き続けている)

 

「末吉」という近年まれに見る微妙なおみくじを引き当てて、車は一路いろは坂を登り、奥日光を目指す。日光まで来たのだからもう少し足を伸ばして湯元温泉に行こう、というのは人間として当然の判断だ。

正月早々ヘアピンカーブの連続を超え、さらに中禅寺湖の先に行こうという人間はそういないようで、ここはいつ行っても実に閑静だ。湖畔のささやかな温泉街は、足を踏み入れた瞬間に硫黄の匂いがする。街外れの湿地帯に源泉があって、そこから川伝いに温泉は湖へと注ぎ込む。だから、冬になっても湖は完全に凍ることはない。湖の名前を「湯ノ湖」という。

 

県民割引がある、という理由で、休暇村のビジター入湯を利用するのが恒例だ。掛け流しのお湯(冬は温度調整の都合で加湯してるらしいが)で、湯質に関しては間違いがない。単純硫黄泉のにごり湯で、空気との反応の仕方により白く見えたり緑に見えたりする。長々と車を走らせてくるだけの価値は十分にある。

 

昼前に宇都宮の家を出て、こんなことをしていたら帰ってきた頃には日がすっかり落ちていた。サリーが和室のコタツで、ふてくされたようにして寝ていた。気が付けばこの子も今年でもう7歳である。

出がらしの煎茶はふるさとの味

「朝茶は一日の難逃れ」という言葉は、生活の作法として幼少の頃より仕込まれてきた。実際は朝食にトーストが出たりすると朝茶がホットコーヒーになったりするわけだが、それでも休日の朝は、たいてい食後に煎茶が出てくる。

 

朝日と共に就寝する生活が久しく、朝茶という健康的な文化もすっかり廃れていた。味噌汁の葱を刻む音で起床を促し食後に煎茶を出してくれる環境は、新幹線で4時間の彼方にしかない。隣室の目覚まし時計が、「1限の時間になります」「1限の時間です」「1限の時間でした」と1つのベル音で過去・現在・未来を完璧に表現している。さっさと語学を揃えたいなら、いっそ目覚まし時計に学生証を与えるべきなのかもしれない。

 

お勤め品のお茶っ葉を買い込んで、2煎目、3煎目…と繰り返す。多少淹れ方に気を遣ってはいるが、いつまでも煎茶でござい、とはどうしたっていかない。色ばっかり本物っぽくて、舌先に感じるものはだんだんそれらしさから遠ざかっていく。

 

別段貧乏でもないのだが、田舎のおおらかさなのか、祖母は1回の茶葉で何杯でもお茶を淹れていた。お茶の雰囲気を僅かに残した白湯を「出がらし」と呼ぶことを知ったのは、ずいぶんと大きくなってからのことである。

 

何煎目か分からぬ出がらしの味わいに、祖母はどうしているだろうか、とふと思った。「もうすぐお迎えが」と言い始めてすでに10年が経つが、朝茶のまじないでもうしばらく頑張ってもらいたい。

 

ふるさとが遠いと、でがらしの煎茶にも懐かしさを思うらしい。

置い読(とく)という愉しみ

独り暮らしの家にしては本が多い方なのではないか、と勝手に思っている。

 

図書館というものと折り合いが悪く、昔から本は買って読んでいた。親も本と言えばかなり融通を利かせてくれたので、本屋に連れて行かれる度に、何時間もかけてどれにしようこれにしようと悩んだものだ。それでもたいがい5、6冊にはなってしまい、「そんなに買ってどうする」と親にあきれられたのを思い出す。

 

三つ子の魂百まで、というくらいだから、24年くらいでは習い性が薄れるわけもない。京都に移ってもずんずん本は増え、進路を誤ったおかげで、近年ことさらにその勢いを増している。

 

「本の散らばる部屋」というのも無頼派的な趣が無くもないが、一線を越えればただのゴミ屋敷である。人間らしい生活を送らねばならない、そう思い立って数年ぶりに本棚の整理をした。

 

本を整理するルールは至って単純明快。

「原書・専門書等を一番よく見える場所に設置する」

「二度と読まない本は売るか見せる必要のある本の後ろに配置する」

これに従うと文庫本なら岩波文庫PHP新書より上位に、そしてカント関連書籍は堂々のセンターを獲得することになる。こうすることで、高額な専門書達もインテリアとしての本来の役割を十分に発揮出来るわけだ。

 

そして、こうして何かを整理する度に、自分のうちの意外な広さにハッとさせられるのである。