寺子屋稼業のかたわらで

京都、ときどき栃木。

ZOZOスーツと水無月の6月

 ZOZOスーツが届いた。

 整体に通い始める決意をした。

 

 ZOZOスーツを注文したのは、サービスのリリースが決まってそう間もない頃だったと思う。もはや遠い昔のことになってしまって、具体的にいつだか全然思い出せない。あの頃のスーツは、悪いウルトラマンみたいなイカしたデザインだった。数ヶ月待った上に届いたのは、ケムール人のアクトスーツだった。いま注文するとケムール人で2000円+送料らしいが、待ちぼうけへの誠意か、幸いにも私は一文も支払っていない。

 

 近頃のスマホは、どうにもかさばりすぎる。それでいて手頃なサイズにすると、性能が手頃でなくなってしまう。撮影用のアプリは高熱とともに強制終了を繰り返し、全身タイツに汗をにじませながら出勤前夜の25時を迎える。とても手に負えるものではない。「SO-02HではなくGaraxy S8を使用してください」、そうパッケージに書いておくべきではなかったか。

 

 データとして提示された自分の姿は、西島秀俊であると理解するのには相応の努力を必要とするものであった。ウェストの数値もさることながら、反り腰気味なのが目に付く。そういえば、妙に左肩ばかり凝りやすい。もしかしたら、身体が歪んでいるのではあるまいか。

 

 仕事先に近い整骨院に電話をかけるまで、そう時間はかからなかった。整体はバクチだ、とよく聞いているが、いまのところ頸椎を折られもしなければ腸捻転にもなっていない。週2で通え、と言われるので、出勤前に寄っていくリズムがここ1ヶ月ほど続いている。

 

 緊張と緩和で世の中は出来ている。だが、冷房の効いた部屋でマッサージを受けたそのあとに、職場に向けて炎天下を歩くのである。デュナーミクもほどほどにしなければ品がないというものだ。洛中の裏通りで、繊維業を中心に老舗が多いところを南へ下がる。

 

 ある和菓子屋の張り紙で、今日が6月最後の日であることを思い出す。関東育ちだろうと、この街で買い物をする権利は日本円を有する限りで保証されている。

 

水無月ください」

「おいくつご用意しましょう」

「1つで」

 

たぶんもう来年まで来ないだろうに、おつりを包む所作に至るまで、皇族の買い付けもかくやという丁重さ。おつかいだと思われたに違いない。

 

 職場で水無月をかじりながら、茅の輪をくぐっていないのがどうにも気にかかってくる。お祓いも所詮は気のものだが、だからこそ、それが「ない」ということが際立ってくる。

 

 だから、コーヒーを買いに行くことにした。

 

 結露だらけのコーヒーを携え、汗だくになって戻ってきたのは、15分ほどしてのことであった。

 

 これできっと、気持ちよく夏を乗り切れる。

 せめて、気分の上だけでも。

ZOZOスーツと水無月の6月

 ZOZOスーツが届いた。

 整体に通い始める決意をした。

 

 ZOZOスーツを注文したのは、サービスのリリースが決まってそう間もない頃だったと思う。もはや遠い昔のことになってしまって、具体的にいつだか全然思い出せない。あの頃のスーツは、悪いウルトラマンみたいなイカしたデザインだった。数ヶ月待った上に届いたのは、ケムール人のアクトスーツだった。いま注文するとケムール人で2000円+送料らしいが、待ちぼうけへの誠意か、幸いにも私は一文も支払っていない。

 

 近頃のスマホは、どうにもかさばりすぎる。それでいて手頃なサイズにすると、性能が手頃でなくなってしまう。撮影用のアプリは高熱とともに強制終了を繰り返し、全身タイツに汗をにじませながら出勤前夜の25時を迎える。とても手に負えるものではない。「SO-02HではなくGaraxy S8を使用してください」、そうパッケージに書いておくべきではなかったか。

 

 データとして提示された自分の姿は、西島秀俊であると理解するのには相応の努力を必要とするものであった。ウェストの数値もさることながら、反り腰気味なのが目に付く。そういえば、妙に左肩ばかり凝りやすい。もしかしたら、身体が歪んでいるのではあるまいか。

 

 仕事先に近い整骨院に電話をかけるまで、そう時間はかからなかった。整体はバクチだ、とよく聞いているが、いまのところ頸椎を折られもしなければ腸捻転にもなっていない。週2で通え、と言われるので、出勤前に寄っていくリズムがここ1ヶ月ほど続いている。

 

 緊張と緩和で世の中は出来ている。だが、冷房の効いた部屋でマッサージを受けたそのあとに、職場に向けて炎天下を歩くのである。デュナーミクもほどほどにしなければ品がないというものだ。洛中の裏通りで、繊維業を中心に老舗が多いところを南へ下がる。

 

 ある和菓子屋の張り紙で、今日が6月最後の日であることを思い出す。関東育ちだろうと、この街で買い物をする権利は日本円を有する限りで保証されている。

 

水無月ください」

「おいくつご用意しましょう」

「1つで」

 

たぶんもう来年まで来ないだろうに、おつりを包む所作に至るまで、皇族の買い付けもかくやという丁重さ。おつかいだと思われたに違いない。

 

 職場で水無月をかじりながら、茅の輪をくぐっていないのがどうにも気にかかってくる。お祓いも所詮は気のものだが、だからこそ、それが「ない」ということが際立ってくる。

 

 だから、コーヒーを買いに行くことにした。

 

 結露だらけのコーヒーを携え、汗だくになって戻ってきたのは、15分ほどしてのことであった。

 

 これできっと、気持ちよく夏を乗り切れる。

 せめて、気分の上だけでも。

選びうること、選びえないこと

 休日の夜にカフェインを効かせすぎて、日が出るか出ないかというころになってようやく眠気がやってきた。出勤まで、それでもなんとか7時間はある。

 

 明け方が朝になろうかという頃。隣の部屋の人が、壁に何ごとかぶつけている。いや。音にしては、身体に感じるものが突き抜けすぎる。地震、のような気もする。なんでもいい、起きてからでも確かめられる……。事実を突き止めるよりも、朝8時の私は睡眠と休息を優先させてしまった。

 

次に私を起こしたのは、11時半の目覚ましアラームではなく、ドアチャイムの音だった。後輩がモニターに映っている。

 

「……おはよう、どしたん」

「連絡が通じないので安否を確かめて欲しい、と言われてきました」

「は?」

「ニュースまだ見てないんですか」

「ニュース?」

 

 テレビを付ける。

 状況が見えていく。

 一気に目が覚めていく。

 

 NHKから流れてくる情報が、少しずつ深刻さを増していく。報道の慎重さが、ことの大きさに手触りを与えていく。身の上が変わったので、仕事のことが気にかかる。

 情報ツールの発達というのは、必ずしも適切で冷静な判断を約束しないらしい。天災の前に人が立っている、ということに何か違いがもたらされるわけではない。出勤ぎりぎりになって、「自宅待機」という判断が下る。

 

 街に出る。かき入れ時のファミレスは、今日もランチをやっている。大阪の鉄道が動かない、というニュースをスマホで眺めていると、中国人の団体が市バスへと駆け込んでいった。ニュースは続報で、数人の死者が出たと伝えていた。

 

 震源からここまで、地球のモノサシで言えば見分けも付かないだろう。その僅かの差で自分はここにいて、あるいはそうでなければ自分がニュースの当事者だったのかもしれない。そしてそれは7年前とて同じことで、いわばまたしても自分は「助かった」。

 

 多少うさんくさい理論だが、人というのは、法則を押しつけることによってしか認識を形成しないのだという。7年前と今日と、その2つを線で結んで像を結んだところで、単なる影絵遊びとそう大差はない。2つの間に因果がないのなら、今日私は大阪にいたかもしれないし、動いたのは裏山の断層だったのかもしれない。ブロック塀の下にいたのが私ではないと、一体誰が言い切れるのか。

 

 明日どうなるかわからないなら、今食べないものを我慢するいわれもない。給料日からまだ2日しかたっていないのだ。

 だから、今日の晩ご飯は回らないお寿司にすることにした。正確には、行ってみたら回っていなかったのだが。

 

 不謹慎な、と言われるかもしれない。でも、実際自分に確かに選びうるものが、いったいどのくらいあるというのだろう。寿司が選びうるのなら、人は自分の実存をかけて寿司を選ばなければならない。

 

 今の私は、大まじめでそう思うのだ。

初任給の京都

 葵祭がすぎた頃から、盆地の風に少しずつ見通しの悪さが混じってくる。生暖かさが夜に及びだしたら、街中が祇園祭のコンチキチンにつつまれるまではそう遠くない。

 

 それでも、半袖で通すのにはまだ気が早い。窓を開けていさえすれば、エアコンの電気代に頭を悩ますことなく熟睡することができる。とはいえ、これもそう長くはないのだけど。

 

 授業を終えると、簡単な報告書をまとめることになっている。ここは京都市の真ん真ん中、いわゆるオフィス街の一角。縦横のメインストリートが交差し、市バスとタクシー、そして事情を知らないレンタカーで忙しい。こういった場所では、法螺貝の音や御神輿のかけ声などは聞こえないことになっている。コンビニにコーヒーを買いに行っても、山伏の一群が目の前を通り過ぎていったりはしない。ビジネス街とはそういうものだ。1週間前まではそう思っていた。

 

 月例のミーティングで、宵山の交通規制が話題になる。この街では、人間の都合にイベントが合わせるのではない。イベントの日程は、数百年前からカレンダーに記載されているのだ。こちらも大人なら、先約を重んじなければならない。

 

 仕事から帰って夜更かしをして、寝て起きたら日曜もすでに午後の3時をまわっている。

 銀行の口座に、今までにない額が振り込まれていた。友人たちに、いったい何年遅れたことだろう。生計という観点から、とうとう実家と自分が切り離されてしまった。

 2年目になって住民税に苦しむ、という話をよく耳にする。計算してみると、なるほどこれは大きな額だ。1ヶ月分あれば、実家に何か贈ってやれる。

 関東の端っこでは、京都のイメージはテレビに映るものがすべてだ。こないだテレビでやってたあの店に入ったことがあるか、あそこの寺はどうだ、と、帰るたびに飽きもせず同じことを訊ねている。息子が行きつけの店でばかりメシを食う家庭で育った、ということを、この親は忘れているらしい。「佐々木酒造の聚楽第」、「焼肉の天壇」、どちらも学生の手には届かないというのに。

 日曜午後の伊勢丹は、標準語と中国語が支配している。8年住んでいてもこの一群に伍するほかない私は、やはりただ法的に市民であるにすぎないらしい。

 緑色のお茶菓子、漬け物、その一角にビンの立ち並ぶエリアがある。「佐々木酒造の聚楽第」、母の言葉でしか知らなかったものが、今目の前にある。

「これいただけますか」

斜め後ろで様子をうかがっていた店員が、手際よくレジへと案内する。

「プレゼント配送をお願いしたいのですが」

宅急便の送り状を書かせてもらいながら、事務机のペンスタンドが目に留まる。コンビニにあるような、安い筆ペンがあった。

「それ貸してください、あと便箋」

かすれかけた墨汁で、裏紙のような便箋に一気に書き上げる。

「これはっつけといてください」

カードの残高は、どうやらまだ間に合っている。事は済んだ。

 

 自分にも子供が出来て、もしかしたら遠い土地で社会人となるのかもしれない。

 働き出してしばらく経ったある日、なんの前触れもなく

「初任給」

と、ただそれだけ書かれたメモを添えた日本酒が届いたとしたら。

 そればかりは、親になってみなければ分からない。

春夜思

 モラトリアムに駆け込んでくるように、今年の桜はいつになく早くやってきた。御室桜も4月早々には満開になってしまって、京都にはもう初夏の足音がしている。

 

 疎水の桜もそろそろだろうか。そう思って身ひとつで散歩に出たのは、もう3月も終わるかという日の夜更けだった。

 

 桜があるところに人は集まるし、人が集まるところだから桜が植えられる。みんなのものであればこそ、桜は誰のものにもなりはしないのだ。それでも静かに独り楽しみたいのなら、誰もが寝静まったあとにこっそり行くのに限る。

 

 春も秋と並んで京都のかき入れ時だが、不思議と桜に関しては、地元の生活の側にむしろ近いように感じる。夜風にもささやかに甘さが乗って、裏地の厚いコートに役割の終わりを告げていた。古びてチカチカしている街灯と月明かりだけが、独り歩きの足下と見上げた桜を照らし出している。LEDの明瞭さとあざやかさは、この淡い色には野暮なだけだと私は思う。

 

 疎水沿いにそのまま北東へ、哲学の道を終点まで歩く。学生街だからこんな時間でも独り占め、とはいかなくて、二人連れとすれ違う。付き合って間もないのかな、それにしてももっとほかに話題があるだろう……断片的に耳に入ったやりとりから、ついつい余計なことを考える。こんな夜桜に誘う機会を、この街では誰もが持っている、学生として過ごすには、どうしてあまりに恵まれすぎている。活用しきれるかはまた別の話だが。

 

 SNSでは同期や後輩たちが、学生生活や京都に別れを告げている。私はといえば、下宿は契約の都合で動かないし、職場はこれまでのバイト先ときている。変化といえば、京大生の(さして役に立たない)看板がなくなっていよいよただの人になった、というくらいのものだ。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」。去年と違って見えるのは、私よりもむしろ花のほうなのではないか。劉希夷の一節をしんとした桜並木に重ねながら、そんなことが思われた。

 

 これを書いている今はとうに新緑の季節で、あと2ヶ月もすれば、疎水はまた蛍狩りににぎわうことになる。

 今度はどういう私が、どんなものを見ているのだろうか。疎水を歩くごとに、私も季節とともに移りかわっていくのかもしれない。

ある幸せの話 —友人の結婚式によせて—

オーケストラ時代の同期の結婚式だった。

 

晴れ間の雨と、雪まで舞っている。傘を持とうか持つまいか悩ましい。オリンピックでも吉事があったし、神威の類にとっても今日はめでたいのかもしれない。とはいえ寒い…観光客の合間を、昨年夏の演奏会以来ご無沙汰の礼服姿でぐいぐいすり抜けていく。

 

東山の高台寺界隈に、こんな結婚式場があるとは知らなかった。元は何かのお屋敷だったのだろうか、きょろきょろしつつ、庭を抜けたところにある控室に通される。

 

ひさしぶりだな、という言葉に、久しぶりだな、という言葉が返ってくる。それほどまでに互いが遠くなっても、こんな言葉一つでその時間が片付いてしまうなんて、よく考えたら希有なことなのかもしれない。ご祝儀袋の代筆を請け負ったり、簡単な近況を触れあったりしている間に、式の時間となる。

 

「じんぜんけっこんしき」なのに、神父も牧師も出てこない。まさしく神は死んだのだな、などとくだらないことを考えていたら、これは「人前結婚式」というスタイルだと知った。くだらないのは自分だった。

 

2人という人間の歴史がまさにここにあって、そしてこの先もそうして続いていくんだろう、と思わずにはいられなかった。新郎新婦の素直な幸福、そして参列者の率直な祝福。結婚式に参列したのはこれが初めてだけれど、誰もが結婚するからといってこうとはなり得ないのではないか。そんな風にすら感じる。

 

何気ない仕草の中に互いへの思いやりがあって、結婚という形式は、本当にただ2人の在り方の社会的な追認にすぎないのだ。もちろん、それをするのとしないのとで大きな差はあるのだろうけれど。「ようやくか!」という言葉が絶えないほどに、2人の結婚は、誰にとっても到来すべき未来だった。

 

幸せにしたい人を幸せに出来るということほど幸せなことはない、終バスを逃して夜道を歩きながらそんなことを考える。そして、その資格があるということは、人間にとってそうありふれてはいない。資格があるのに不意にしてしまう人もいれば、幸せにしたくてもその資格を持たない人もいるだろう。幸せが万人にとって望まれながら望まれるに留まるのは、たぶんそうした巡り合わせの問題なのだ。

 

私と、今日居合わせた人々は、その巡り合わせが確かにあることを知った。幸せが万人にとっての現実ではなかったとしても、そうしたものは疑いようもなく実在している。それがすでに、私たちにとっての幸せであるに違いない。

 

2人のこれからが幸運なものであれば、それだけで誰かが幸せになる。

なんと幸せな話ではないか。

雪夜の一人称

 いやに冷える夜更けだと思えば、音もなく雪になっている。なるほど、寒いはずだ。窓の外のいつもの景色に、ふいに東山魁夷が思い出される。見えているのは吉田山であって、鴨川ではないのだけれど。しかし、となれば、寝間着を着替え、ダウンジャケットを羽織りかけるほかはないのである。

 

 明日はバイトだし、この雪では普段より早めに家を出なければならないだろう。それでも、物好きで四半世紀を通してきたのだから、ほかにどうしようもない。およそ、生き馬の目を抜くビジネスの世界ではやっていけない人間だ。そう思うけれど、そんな人間だから京大に7年も居座ってしまったし、そんな人間だから4月からは新卒で寺子屋稼業だ。そう、そうだからこそ、こうなのである。

 

 深夜3時に雪でワクワクする人間はそういないとみえて、大路も小路も、私の足跡ばかりが転々と続く。大学に行けば雪だるまの一つや二つあるだろうか、と思っていたが、雪だるまどころか、雪遊びの気配すらない。煌々と点る自習室の灯りとグロッキーな人影に、今がテスト期間というものだったことを思い出す。幽霊院生には、試験も何にもないのである。

 

 百万遍はそれでも人の気配がして、交差点へ向かうほどに人にすれ違う。いけない、深夜の一人歩きに「他者」などあってはいけない。ましてやこんなに深い雪だ。一人称の世界こそ、雪夜の散歩にはふさわしい。

 

 目当てがあるわけでもなく、なんとなく北白川のほうへ足を向けてみる。見慣れた街のアラが、白とやわらかさのおかげで、つまらない交差点にすら、足を止めて見とれる何かがある。雪化粧、とはなかなか言い得て妙な表現らしい。マンホールのまわりだけが、がんばって普段通りのすっぴんで通している。人の営みのしぶとさ、そんなものを感じる気がしなくもない。

 

 以前にもこんなふうに、深夜に大雪になったことがあった。部活のスタッフ会議がテッペンを越えて(恐るべきことによくあることだった)、やっとこさ終わり外に出てみたら、なんの準備もないままに銀世界だった。深夜テンションにどか雪で、クタクタのはずなのに誰というでもなく雪合戦が始まっていた。終わってうちに帰る頃には寒さと冷たさに閉口したけれど、あの日の雪は、私たちの雪だったのだろうと思う。

 

 そういえば、あの日の雪にいたうちの2人から、先日結婚の報告が届いたのだった。あのころとウエストが違うので、このままでは着ていけるスーツがない、と気づいた。

 

 雪夜と言わず人影がと言わず、私はもっと歩かなければならないらしい。