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月というのは情緒の向かう先である一方、西洋文化の文脈では、むしろ「狂気」と結びつけられる。狼男は満月の夜に変身するし、シェークスピアも、男の愛の不実を月の満ち欠けになぞらえている(でも欠けたってまた満ちるんならそれはそれでいいんじゃないかなあ…いや、ダメか)。

 

研究室の新歓イベントで鞍馬山を踏破し、夜のコンパで馴れない幹事を務め、とにかくくたびれた1日だった。二次会の声があがる中でそそくさと退散してしまったのだが、百万遍の賑やかさを通り抜け、大学の静けさで一息ついていると、今日はたいそう良い月が出ている。夏に差し掛かったとは言え、夜風はまだ涼しい。誰に気を遣うことのなくなった酔いが、いい具合に思考を殺してくれる。李白に『月下独酌』という連作があるが、なるほど月をしらふで眺めるというのは勿体ないのかもしれない。「月が綺麗だ」という言葉は、別に同意を求めずともいい。ただ、そう言ってしまえばいいだけのことだ。

実験

厨二病、なんて言葉が市民権を得たのは一体いつの頃からなんだろう。自分にもご多分に漏れずそうした時期はあったのだけれど、もう「つい最近のこと」だとは到底言えないようなところまで来てしまっている。

 

今でも「前略プロフィール」とか、あの手のサービスは残っているんだろうか。私が中学生の頃は、中高生でもケータイを持っているヤツがわりあい増えてきて、ローカルなネット文化みたいなものが、そこかしこに、気軽に形作られていた。たぶん、同世代のほとんどが、ネットのどこかに黒歴史を残してきているのではなかろうか。

 

自分の場合、厨二病は「ブログ」というかたちを与えられて世に放たれたのだった。一定の「読者」までいたという事実が、その黒歴史に深く闇を添えてくれている。

 

でも、物書きになりたかった自分にとって、読み物を作るという行為は、とても楽しかった。それは間違いない。哲学を専攻し始めて、語る言葉も対象もあの頃からはだいぶ様変わりしてしまったけれど、ときおり、それをどこか寂しく思うことがある。振り返るだに恥ずかしい一方で、あの頃の自分を羨ましくも思う。そんなに良く書けるもんだなあ、と。

 

今またもしブログを始めたら、どんな言葉が綴られるのだろう。これはひとつの実験でもある。