rinshunn’s blog

京都、栃木、ときどき哲学。

言葉の中身

5月来箱が終わった。表の期の短さが、6回生にもなってようやく実感されてきた。言葉の上では知っていたつもりなのに。

 

パートが若返ったのと、あとは在洛のお年寄りが少なくなったのとで、こともあろうに私(前中乗り)がメインへのコメントをする立場になっている。頭数とは言え、流石に乗っている以上、多少は弾く以上の役に立たなければならない。去年オケに復活(死地からの蘇生、と言っても過言ではないが)して以来、可能な限り感想などをメインメンツに伝えたりということをしているわけだけれど、その都度、自分の言葉にもどかしさを感じずにはいられない。

言葉の目方が、必要な分にほんの少し足りない感じがするのである。

 

「中身のない言葉」に対する我慢ならなさ、というものが常に頭のどこかにある。

私のいう「中身のない言葉」とは、「喋っている本人が自分の言葉で説明しきれていない(そして往々にして話し手はそれに気づいていない)ので、実際には聞いたことのオウム返しにしかなっていない言葉」のことだ。

 

耳なじんだ言葉、ずっと受け継がれてきた言葉、「常識」という以上に追究されずにある言葉。言葉は音や文字に寄せて意味を伝えるけど、メッセージの乗せ方に無頓着だと、いつのまにか意味が流れて、音や文字ばかりがどんどん伝わっていってしまう。

 

意味の運び手である、言葉の無責任を責めるべきか。いやいや、積み荷の縛り方が甘くても、トラックには何の罪もない。受け取った荷物に応じて、適切な積み方を講じなかった自分が悪いのだ。

 

さて、そこで考える。今見て気づいたことを、どう積んで送り出してやるのがよいかと。なにせ、送り出すこちらより、届け先の後輩たちのほうが荷の積み方は巧いのだ。私の積み方では、彼らの欲しいものが届けられていないかもしれない。いや、届けられていない。私の送り出したトラックは、荷を積みきれないままに軽率に走り去っていく。

 

なんとももどかしいことである。