rinshunn’s blog

京都、栃木、ときどき哲学。

千年の愛人 —田舎者と7年目の京都—

 さて、愛人というのは身分なんだろうか、それとも、職業なんだろうか。そもそも、いつごろからある言葉なんだろうか。

 

 

 「妾」という日本語もあるし、そもそも「愛人」は中国語では「恋人」という意味の言葉だ。これはなんだか変だ。

 

 

 いや、今は「愛人とは何か」について話したいわけではない。そもそも私が何を語れるわけでもない。30年後くらいにもう一度考えることにしよう。

 

 

 開花の遅さが幸いして、今年の桜はなんとか入学式に間に合った。普段ならちょうど春休みのあたりで見頃を迎えるのだが、観光客のみなさんには可哀想なことだと思う。

 

 

 京都に住んでもう7年目を迎える。人生の1/4以上がここで過ぎていったわけだが、この街への感情というものは一貫して、曰く言いがたい。

 

 正直、骨を埋める場所とは思えないが、一刻も早く出たいとも思えない。そろそろ暇乞いを、と思うやいなや、この街の澄まし顔は不意な流し目を送ってきたりする。

 

 だからと言って、いつまで経っても私はよそ者でしかないのだ。京都人たるには「6世代以上在住」という厳しい条件が課されている。ローマ帝国だって、25年兵役を務めれば属州民に市民権を付与したというのに。滋賀県民が何百年水を提供しようと、彼らが京都人となることはないのである(ちなみに琵琶湖からの取水口は当然滋賀県側にあるが、疎水含め全て京都市水道局の管轄となっている)。それは分かっていても、どうせならあともう少し、眺めていたい気が沸いてきてしまう。

 

私にとって、京都はそんな街である。

 

 

 素敵な喫茶店(断じて教えない)がたくさんあったり、気の利いた散歩道(断じて教えない)が身近にあったり、流し目に釣られて、この春もふらふら出歩いている。この街と自分とはどんな関係なんだろう、などということが頭をよぎったとき、いちばんしっくり来た答えが「愛人」だった。

 

 「友達」というほど気軽な相手でもないし、「家族」「恋人」などというほど近しくもない。さっき言ったように、この街は私を心から受け止めはしないだろう。でも、片思いというほど一方的な間柄でもないとも思うのだ。この街の良さは私に対して閉ざされているわけではないし、そして、受け止めないわりには、相性よく楽しく時間が過ごせる。とすると、私は京都「で」ではなくて、京都「と」散歩し、そしてコーヒーを飲んでいたのかもしれない。なんと贅沢な経験であることか。

 

 

 しかし、おそらくあと1年のうちには、この街とも別れなくてはならない。哲学の道を散歩するのは楽しいけれど、このまま歩き続けると、数年以内に文字通り骨を埋めることになる。「自らの生の促進は人間の完全義務である」とカント先生もおっしゃっている。なまくらな弟子が1人いなくなったところで、教えには忠実なのだからカント先生も怒るまい。

 

 

 コーヒーのフィルターが切れたのでコンビニへ出かけたら、鴨川へと続く西向きの道に、遠く薄紅色がさしていた。

 

 こういうことをしれっと、抜き打ちでしかけてくるのだ。

 

 本当に京都は、ずるい。