rinshunn’s blog

京都、栃木、ときどき哲学。

ソクラテスの牛丼

彼女と牛丼屋はアリかナシか、という哲学上の難題が存在する。

  

「おひとりさまでどこまでできるか」と同じく、「彼女とご飯はどこまで許容されるか」ということについては、21世紀に入ってもなお、統一した見解が得られていない。こと「牛丼屋」に関して言えば、「行くわけがない」という独断論者、「行ったっていいじゃん」という自由主義者、そして「それではまず彼女を用意してください」という一休さんまで、主張する人の数だけ答えが存在する。

 

独断論者の主張は鵜呑みにできないし、自由主義者にしろ、積極的選択肢なのか消極的選択肢なのかで話は異なる。さりとて一休さんのとんちも、ここでは答えを用意してくれない。ここで必要なのは、「牛丼屋とは何か」と問わずにはいられない哲学者の声であるに違いない(違う)。

 

身の回りではどうやら「行く」という回答が多かったようだが、ここが東京都港区ではなく京都市左京区であることは考慮に入れねばなるまい。交差点の真ん中で雀卓が囲まれるような土地と、マンションの何階に住んでいるかでデュエルしている街とでは、おのずから民族性が異なる。

 

ただ、不思議なもので、彼女とは行かないという人でも、自分ひとりならむしろよく使っていたりする。牛丼屋それ自体が問題なのではない。彼女と行く選択肢としての牛丼屋、それが問題なのだ。

 

彼女と行く場所に、みんないったいどんなことを求めているのだろう。価格が問題か?いや、たぶんそれも違う。価格が問題なら、独断論者はマ◯クやス◯バは使わないのだろうか。使う価格で言えば、牛丼もハンバーガーもさして変わらないのだから。では、雰囲気はどうか。これはなかなかよい論点かもしれない。だったら、意識の高い内装の牛丼屋があったなら、デートスポットとして成立するだろうか。そう言えば、味は普通なのに内装がオシャレでやたらとはやっているラーメン屋があったような……。結局、なにごとも「見た目が9割」という、身も蓋もない結論が見えてしまった気がする。

 

しかし、外見至上主義の専横に任せるのはいかにも許しがたい。なにごともイケメン、と言われてしまっては私の立つ瀬が無いではないか。

そこで、最後に私なりの見解を示して、今は筆を擱こうと思う。

 

「自分で作れよ、捗るぞ」

 

 

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

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