寺子屋稼業のかたわらで

京都、ときどき栃木。

実家の柿

 雑草園と化していた実家の庭も、いわゆる「老境を迎えた」というやつなのか、最近は親がせっせと手入れをしてだいぶ体裁が整いはじめた。牡丹だ菊だプチトマトだ、とどうにも賑やかなことだ。そのうち石油でも湧くのかもしれない。

 

 台風が通り過ぎた頃、唐突に(前置きがあった試しなどないが)母が

「柿は要らないか」

という連絡を寄越してきた。風でおじゃんになる前に取り込んだはいいが、思いのほかに実っていたということらしい。そういえばこないだの帰省で梨を持ってき損ねたな、などと今更のことが思い返される。午前の便で送って欲しい、と伝え、届いたのはもう先月の末のこと。冷蔵庫の上段を占有し通しだったものを、いまになってようやく食べる気になった。

 

 柿が嫌いというわけではない。皮を剥く、という一手間がなんとなく煩わしかったというだけのことだ。何個かは痛んでしまって泣く泣く処分したが、残りはどれも実に良い色つやだ。なにより、硬さが良い。

 

 政治や宗教と同じくらい、「柿の食べ方」もまた、ディナーの話題としては避けるべきだ。完熟して柔らかくなったところで食べるか、それとも、食感のあるうちに食べるか。永遠に合意を見ることのない対立がここには存している。ああ、干し柿という第3極のことを忘れていた。事態は混迷を極める一方だ。

 私は昔から、柿は硬いうちに食べるものだと思っている。しかし、硬いうちはまだ甘さが育っていないことも多い。したがって、適切な食べ頃を見極めるのが大変難しい。柔らかくなってしまえば確実に甘いし、干し柿などは渋柿を食べる工夫なのだから、甘くないなどということがそもそも許されない。しかし残念なことに、私はどうしても柿を硬いうちに食べなくてはならない。微妙なものにあたることが多いが、そのぶんアタリを引き当てたときには、美味しさが一入に感じられる、気がする。

 

 実家から届いた柿は、まずまず私の好みに適するものであった。甘さもくどすぎず、ちょうど良い塩梅である。そもそもいつから実家の庭に柿が植わっていたかが定かではないが、柿の実から察するに、親もそれなりの手入れをしているらしい。

 

 いつのまにかリフォームの算段も付けていたようだし、次帰るときにはもはや知らない家になっているのではなかろうか。

 

さるかに (ものがたり絵本3)

さるかに (ものがたり絵本3)