寺子屋稼業のかたわらで

京都、ときどき栃木。

ある幸せの話 —友人の結婚式によせて—

オーケストラ時代の同期の結婚式だった。

 

晴れ間の雨と、雪まで舞っている。傘を持とうか持つまいか悩ましい。オリンピックでも吉事があったし、神威の類にとっても今日はめでたいのかもしれない。とはいえ寒い…観光客の合間を、昨年夏の演奏会以来ご無沙汰の礼服姿でぐいぐいすり抜けていく。

 

東山の高台寺界隈に、こんな結婚式場があるとは知らなかった。元は何かのお屋敷だったのだろうか、きょろきょろしつつ、庭を抜けたところにある控室に通される。

 

ひさしぶりだな、という言葉に、久しぶりだな、という言葉が返ってくる。それほどまでに互いが遠くなっても、こんな言葉一つでその時間が片付いてしまうなんて、よく考えたら希有なことなのかもしれない。ご祝儀袋の代筆を請け負ったり、簡単な近況を触れあったりしている間に、式の時間となる。

 

「じんぜんけっこんしき」なのに、神父も牧師も出てこない。まさしく神は死んだのだな、などとくだらないことを考えていたら、これは「人前結婚式」というスタイルだと知った。くだらないのは自分だった。

 

2人という人間の歴史がまさにここにあって、そしてこの先もそうして続いていくんだろう、と思わずにはいられなかった。新郎新婦の素直な幸福、そして参列者の率直な祝福。結婚式に参列したのはこれが初めてだけれど、誰もが結婚するからといってこうとはなり得ないのではないか。そんな風にすら感じる。

 

何気ない仕草の中に互いへの思いやりがあって、結婚という形式は、本当にただ2人の在り方の社会的な追認にすぎないのだ。もちろん、それをするのとしないのとで大きな差はあるのだろうけれど。「ようやくか!」という言葉が絶えないほどに、2人の結婚は、誰にとっても到来すべき未来だった。

 

幸せにしたい人を幸せに出来るということほど幸せなことはない、終バスを逃して夜道を歩きながらそんなことを考える。そして、その資格があるということは、人間にとってそうありふれてはいない。資格があるのに不意にしてしまう人もいれば、幸せにしたくてもその資格を持たない人もいるだろう。幸せが万人にとって望まれながら望まれるに留まるのは、たぶんそうした巡り合わせの問題なのだ。

 

私と、今日居合わせた人々は、その巡り合わせが確かにあることを知った。幸せが万人にとっての現実ではなかったとしても、そうしたものは疑いようもなく実在している。それがすでに、私たちにとっての幸せであるに違いない。

 

2人のこれからが幸運なものであれば、それだけで誰かが幸せになる。

なんと幸せな話ではないか。