寺子屋稼業のかたわらで

京都、ときどき栃木。

春夜思

 モラトリアムに駆け込んでくるように、今年の桜はいつになく早くやってきた。御室桜も4月早々には満開になってしまって、京都にはもう初夏の足音がしている。

 

 疎水の桜もそろそろだろうか。そう思って身ひとつで散歩に出たのは、もう3月も終わるかという日の夜更けだった。

 

 桜があるところに人は集まるし、人が集まるところだから桜が植えられる。みんなのものであればこそ、桜は誰のものにもなりはしないのだ。それでも静かに独り楽しみたいのなら、誰もが寝静まったあとにこっそり行くのに限る。

 

 春も秋と並んで京都のかき入れ時だが、不思議と桜に関しては、地元の生活の側にむしろ近いように感じる。夜風にもささやかに甘さが乗って、裏地の厚いコートに役割の終わりを告げていた。古びてチカチカしている街灯と月明かりだけが、独り歩きの足下と見上げた桜を照らし出している。LEDの明瞭さとあざやかさは、この淡い色には野暮なだけだと私は思う。

 

 疎水沿いにそのまま北東へ、哲学の道を終点まで歩く。学生街だからこんな時間でも独り占め、とはいかなくて、二人連れとすれ違う。付き合って間もないのかな、それにしてももっとほかに話題があるだろう……断片的に耳に入ったやりとりから、ついつい余計なことを考える。こんな夜桜に誘う機会を、この街では誰もが持っている、学生として過ごすには、どうしてあまりに恵まれすぎている。活用しきれるかはまた別の話だが。

 

 SNSでは同期や後輩たちが、学生生活や京都に別れを告げている。私はといえば、下宿は契約の都合で動かないし、職場はこれまでのバイト先ときている。変化といえば、京大生の(さして役に立たない)看板がなくなっていよいよただの人になった、というくらいのものだ。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」。去年と違って見えるのは、私よりもむしろ花のほうなのではないか。劉希夷の一節をしんとした桜並木に重ねながら、そんなことが思われた。

 

 これを書いている今はとうに新緑の季節で、あと2ヶ月もすれば、疎水はまた蛍狩りににぎわうことになる。

 今度はどういう私が、どんなものを見ているのだろうか。疎水を歩くごとに、私も季節とともに移りかわっていくのかもしれない。