寺子屋稼業のかたわらで

京都、ときどき栃木。

選びうること、選びえないこと

 休日の夜にカフェインを効かせすぎて、日が出るか出ないかというころになってようやく眠気がやってきた。出勤まで、それでもなんとか7時間はある。

 

 明け方が朝になろうかという頃。隣の部屋の人が、壁に何ごとかぶつけている。いや。音にしては、身体に感じるものが突き抜けすぎる。地震、のような気もする。なんでもいい、起きてからでも確かめられる……。事実を突き止めるよりも、朝8時の私は睡眠と休息を優先させてしまった。

 

次に私を起こしたのは、11時半の目覚ましアラームではなく、ドアチャイムの音だった。後輩がモニターに映っている。

 

「……おはよう、どしたん」

「連絡が通じないので安否を確かめて欲しい、と言われてきました」

「は?」

「ニュースまだ見てないんですか」

「ニュース?」

 

 テレビを付ける。

 状況が見えていく。

 一気に目が覚めていく。

 

 NHKから流れてくる情報が、少しずつ深刻さを増していく。報道の慎重さが、ことの大きさに手触りを与えていく。身の上が変わったので、仕事のことが気にかかる。

 情報ツールの発達というのは、必ずしも適切で冷静な判断を約束しないらしい。天災の前に人が立っている、ということに何か違いがもたらされるわけではない。出勤ぎりぎりになって、「自宅待機」という判断が下る。

 

 街に出る。かき入れ時のファミレスは、今日もランチをやっている。大阪の鉄道が動かない、というニュースをスマホで眺めていると、中国人の団体が市バスへと駆け込んでいった。ニュースは続報で、数人の死者が出たと伝えていた。

 

 震源からここまで、地球のモノサシで言えば見分けも付かないだろう。その僅かの差で自分はここにいて、あるいはそうでなければ自分がニュースの当事者だったのかもしれない。そしてそれは7年前とて同じことで、いわばまたしても自分は「助かった」。

 

 多少うさんくさい理論だが、人というのは、法則を押しつけることによってしか認識を形成しないのだという。7年前と今日と、その2つを線で結んで像を結んだところで、単なる影絵遊びとそう大差はない。2つの間に因果がないのなら、今日私は大阪にいたかもしれないし、動いたのは裏山の断層だったのかもしれない。ブロック塀の下にいたのが私ではないと、一体誰が言い切れるのか。

 

 明日どうなるかわからないなら、今食べないものを我慢するいわれもない。給料日からまだ2日しかたっていないのだ。

 だから、今日の晩ご飯は回らないお寿司にすることにした。正確には、行ってみたら回っていなかったのだが。

 

 不謹慎な、と言われるかもしれない。でも、実際自分に確かに選びうるものが、いったいどのくらいあるというのだろう。寿司が選びうるのなら、人は自分の実存をかけて寿司を選ばなければならない。

 

 今の私は、大まじめでそう思うのだ。