寺子屋稼業のかたわらで

京都、ときどき栃木。

世界、カプセルホテル

「午前中断水」と書かれた紙が、郵便受けに入っている。

 

終わった話ではない。3日後のことだ。

 

昼に起きて遅く帰る生活で、午前中に水が使えない。用も足せなければ歯も磨けないし、顔も洗えないとなれば出勤もままならない。しかし、有休を取るにはまだ2ヶ月も足りない。

 

どうにかしなければならない。

 

話は簡単だ。家に帰らなければ良い。でも、家はひとつしかない。実家は論外の距離にあるし、品行方正が災いして転がり込む相手とてない。良識というのも考えものだ。

 

世間の大半のことはカネで解決する、といったのは誰だったろう。大半かどうかはともかく、カネで解決しないことはおそらく何をどうしても無駄だろうとは思う。快適さと口座残高とのバランスの範囲内で、なかなかおもしろそうな解決策を見つけた。

 

カプセルホテルを予約することにした。

 

歩道いっぱいに溢れる観光客も、夜は当然横にならなければならない。大通りも路地裏も、田舎のデイサービスセンターと同じペースで、京都では宿泊施設が日一つと増えている。

虫の良い条件を出しても、需要と供給が大きいお陰で案外選択肢は幅広い。大浴場があって職場から歩いて行ける、さらにオープンしたて。まさか空いていないだろうと思いきや、格安からゴージャスまであらゆるプランが残っている。とあれば仕事中であろうと、予約手続きを進めるほかない。

 

ホテルは大通りから一本、路地を入ったところにある。オリエンタルなBGMに、簡素だが清潔感のあるフロント。2階には男女別のラウンジがあり、フリードリンクとマンガ、マッサージチェアが使いたい放題。浴場は広くて清潔で、しかもシャンプーとリンスは、たくさんの種類から好きなものを選んで使えるようになっている。タオルと部屋着も用意されているし、着替えがなくても、フロントに行けば下着からYシャツまで一通りのものは手に入る。この行き届きよう、極めて言いにくい既視感がある。

 

リストバンドのバーコードが、各フロアや大浴場への入場キーとなる。サービスの既視感とは裏腹に、この建物では、いかなる間違いも起こりえない。ここにあるのは、徹底した管理と快適さだ。

 

カプセルはもっと狭っ苦しいものだと思っていたが、その狭さが実に心地よい。人ひとりが十分に寝返りを打てる空間に、テレビモニターやコンセントなど、21世紀に必要なものが全て収まっている。時間になれば、光の目覚ましが音も無く、自然に朝を教えてくれる。もしどこぞのおっさんがイビキをかいていても、使い捨ての耳栓という心遣いをこの施設は忘れていない。ちなみに枕も何種類か用意されており、自分に合ったものを好きに使うことができる。必要最小限の中に、あらゆる快適さが約束されている。

 

ここを快適だと感じることは、あるいは自分の世界の限界なのではないか。「480」と書かれた私の穴蔵でウトウトしながら、思う。

 

世界の全てがあるようであって、何も文句がないまでに快適な空間だ。しかし、その空間はありとあらゆる限定と限界がある。起きて半畳寝て一畳、と言いつつ、ここには立って伸びをするだけの広がりもない。プライバシーを守るのはすだれ1枚の頑強さでしかなく、息を潜めて自分の中にこもることによって、ようやく自分が世界と切り離される。

 

もっと広いベッドを要求してもいいし、鍵付きの扉で自分を守りたいと考えるのはなんら間違ったことではない。いや、区切るいわれもないほどに、自分の側から世界へと拡散したっていい。自分が閉じていく必要など、どこにもありはしないのだ。

 

でも、私は確かにこの穴蔵に満足している。あらゆる限定に満ちているのに、「これ以上何も損なわれえない」というそのゆえに、私は喜んで世界から自分を閉じていく。

 

「我唯足ることを知る」と嘯きつつ、本当は何かを諦めている。いや、これ以上、というやつがなんなのかがよく分からない。しなければならない、という謂れもないし、できるんならまあ……などと悠長に構えているうちに、時間ばかりがすぎていく。そして、そうやってでも、多分生きていけてしまうのだろう。

 

結局何を思い立つでもなく、もう一度風呂に浸かり、そして好きな枕を選んで、穴蔵の灯りを消したのだった。