寺子屋稼業のかたわらで

京都、ときどき栃木。

月見れば……

実家の部屋は窓が南に向いていて、そしてそれだけが取り柄である。

 

 

寝ようと部屋の電気を落とすと、外の明るさに気づかされた。

真南を少し西へ過ぎたところ、薄曇りのむこうから、月明かりが差している。

 

向かいの家はすでに寝静まり、幹線道路の街灯は、こちらよりもなおあちらを照らしている。

私の枕元に伸びる青白い光は、あの雲のすきまからやってきたのだ。

 

「牀前看月光 疑是地上霜」

ベッドに月明かり、霜と紛う澄んだ青。

李白の『静夜思』の一節だ。

李白というと豪快な人だ、というイメージがあるけれど、作品を見てみると、むしろセンチメンタルで線の細いところに気づかされる。なるほどこの人は宮仕えには向かなかっただろうなあ、と、彼の詩を読むたびに、共感とも何ともつかない気分が押し寄せてくる。私はこの人が大好きだ。

 

月の明るさは、生活に直接かかわるものではない。

太陽が出なければ、それは神話になるほどの大事件だ。だが、月が消えたといって、誰が驚くだろうか。

だからこそ、月明かりはただ純然に、うつくしいものとして、私たちの前にある。

うつくしいからこそ、私たちの生活のなかで、それははじめて意味のあるものとして意識されるのだ。

 

ところ変われば、なにが自分にとって意味あるものなのかは変わってくるのかもしれない。

オーストリアの旅行中、そう言えば月を見なかったなと今ふと思い出した。

 

異なる習俗、異なる気候、そして異なる美意識。

 

グローバル人材には、いったいどんな月が見えているんだろう。

 

日本の片田舎で、そんな底意地の悪いことを考えている。