寺子屋稼業のかたわらで

京都、ときどき栃木。

変わらないこと、変わるということ —夫婦別姓へのしょおもない雑想—

 スマホをいじっていたら、面白いニュースが飛び込んできた。

 免許証の名前に、旧姓を並記できるようになったそうな。

 

 結婚というのは社会的に大きなものらしく、それだけに、時代の流れがいつでも制度の先を歩んでいる。いっそ「結婚」という制度自体がもはや見直されるべきなのでは?と思わなくもないけれど、どうやら、時代の大勢はそれほどまでに突っ走ってはいないらしい。

 

  アラサーと呼ばれる区分に足を突っ込んだおかげで、私のまわりにもちらほら、姓が変わった人が現れている。カップルのどちらも知っていたりすると、頭では分かっていても、片方の名字に揃っているのは、感慨深いようでどこか奇妙さもある。なにより、たいていの場合は名字で呼んでいたから、どう呼びかけようか?と困ってしまう。新しい姓だとどっちだか分からないし、かと言って「ご亭主」「奥様」というのも……結局仲間内の会話では、昔通りに呼んで、なんとなく誰かが脚注を付ける、なんて具合に落ち着いていたりする。

 

 結婚を「家に入る」というような感覚は、もはや大時代的だろう。比較的保守的な私ですら、そんなふうには思わない。けれど、「姓が変わる」ということ、あるいは「相手と同じ姓になる」ということは、世間的に、なにか大きな意味を持つことのように感じられている。だから、結婚することと、姓を変更することとを分けて考えたいという人も当然いるのだろう。

 

 たとえば、好きだったあの子が自分の姓になるのと、それともずっと◯◯さんでいるのとでは、どちらのほうが幸せな世界だろうか。

 免許のニュースを眺めていて真っ先に浮かんだのは、そんなことだった。

 

 どんな相手であれ、はじめに現れたときには、私ではない「◯◯さん」だ。その「◯◯さん」と関係を結び、作り、育てていった先に、あるいは結婚という契約が成立する。

 であるとすれば、その人が好きなのは「◯◯さん」なのではないか。もちろん、名前は単なる記号に過ぎない。だから、名前が変わったからといって、その名で呼ばれる対象としての“相手それ自体”は何ら変わらない。けれど、記号としての名前がその人の属性ではないと、本当に言い切れるだろうか。「◯◯さん」というその響き、あるいはその親が考えて付けた名前全体の響きや字面もまた、相手の構成要素ではないのか……。であるとすれば、結婚により姓が変わるというのは、思っているより大きな出来事を、相手に、そしてその相手に対する自分に、要求しているのかもしれない。

 

 そんなことを心配してどうする、と突っ込む声がする。その通り、今の私にとっては、あらゆる意味において杞憂でしかない話題だ。

 

「お前が結婚するまでは生きていたいと思う」

 

祖母は私が顔を見せに行くたびに、同じことを言う。

 

 あと何年、私は祖母の長生きに貢献してしまうのだろうか。考えたくもない。