寺子屋稼業のかたわらで

京都、ときどき栃木。

犬と暮らせば

サリー(うちの犬)とふたり、突如留守番をすることになった。

 金曜の素泊まりが安いから、と、私が地元へ戻ってきたのをいいことに、ちょいちょい両親は泊まりがけで温泉に行くようになっている。父はすでに退職し、母も定年まであと僅か。そういえばそういう歳で間違いないのであって、長男ばかりがいつまでも変わらないでいる。

 よくよく見ると案外立ち後れているところもあるのだけれど、それでもグローバル化というのは否応なしにこの島国にも波及している。だから、内陸の田舎にだって、コロナウィルスはやってくる。県内有数の巨大ショッピングモールの店員が感染したらしく、県民の週末のレジャーと経済活動とが一気に失われようとしている。私のちっぽけな家庭教師事務所も、年度切り替えとの相乗効果ですっかり案件の音沙汰がない。

 お金も無いし、外は危険だし、そもそもショッピングモールが臨時休業では行く当ても無い。だから家にいる分には構わない。サリーもほっときゃ寝てるだろう。そう思っていた。

 いつも通りの時間にご飯を出したのだが、気が付くと2時間経っても口を付けていない。それならせめてミルクでも、と軽く温めてから出してやっても、匂いこそかいでもまったく寄りつこうとしない。妙にそわそわして、自分のしっぽを追いかけクルクルしている。こいつはこいつなりに、「なんかいつもとちがう」というのを感じ取っているらしい。

「いつものごはんのひとがいない」

「おさんぽのひともいない」

「ひるねのひとしかいない」

前にペットホテルに預けたときも全然ご飯を食べなかったそうで、普段は「あそべあそべ」と元気なくせに、環境が変わると途端に弱い。手のかかるヤツである。そして私も、結局ほっとけなくてそばにいてやる。

 1階のリビングのソファーがこの子の根城なのだが、寝るときにはどういうわけか2階の両親の寝室に連れて行かれる。サリーはソファーで寝かしといて自分は2階の自室に引っ込もうという算段だったのに、夜の10時を回ったあたりで

「ねるとこにいきたい」

「つれてけ」

みたいな顔をする。そうなれば、上へ抱えていくしかない。

抱えて上がって終わりかと思えば、両親の布団を嗅ぎながら

「いない」

「どこいったの」

とまたそわそわし出す。遊んだり撫でたりして、父の布団の上でようやく寝付いた。大丈夫かな、と動くと

「どこいっちゃうの」

と目を覚ますので、結局自分の布団に引っ込めない。寝顔はかわいいけど、やっぱり手のかかるヤツである。

 別にほっといたらそれはそれなりに寝付くんだろうけど、どうしてもほっとけなくなって、寝るまでそばにいてやってしまう。もちろんサリーはかわいいんだけれど、自分をそう仕向けているのは、主観的感情を超えたある種の義務感であるような気もする。

 気持ちは嫌だと言っていてさえ、「それをなすべきだ」というそれだけのことで、勝手に身体が動いてしまう。往々にして自分の得になるような結果はもたらしてこなかったのに、そういう状況に置かれるとやはり同じようにふるまってしまう。話だけ書くとまるでカントの定言命法を地でいっているようだけれど、私自身、これをいいことだとは思わない。カントでさえ、道徳法則への尊敬には苦痛が伴うと言っているのだ。そんな苦痛、避けて通るに越したことはない。

 人間は手段であると同時に目的として扱わなければならない。それはつまり、人間はだれかの手段であることからは逃れられないということだ。もっと言い換えれば、人間は善と経済的効用との折り合いをどこかで付けねばならない。それがいつまで経ってもできないから、私はいつまでもこうなのだろう。

 でもやっぱりほっとけねえよなあ。サリーの丸い寝姿がスウスウと揺れている。明日の朝ご飯は食べてくれるといいのだけれど。