寺子屋稼業のかたわらで

京都、ときどき栃木。

弾琴復長嘯

 日照量の多い土地に来たからか、それとも人生にも仕切り直しが利かなくなってきたからか。こちらに来てからというもの、妙に活動的になったような気がする。教育学の研究室に乗り込んでおいて哲学の勉強会を開いてみたり、娑婆の空気に窒息死しそうな仲間を集めてガチンコのブックトークをしたり。片道40kmの自動車通勤で、小学校の事務バイトも始めた。こちらは「教育の最前線に直に触れて勉強させてもらえるのにお金までもらる」という点でむしろ願ったり叶ったりだが、かつての私なら「遠い」の一言で即却下していただろう。だから毎週火曜日だけは、朝6時に起きてスーツを着るところから一日のルーティンが始まる。

 活動性の際たるものが、楽器ではなかろうか。今更になって、ヴィオラのレッスンに通い始めた。金銭的余裕などないに等しいのに、である。

 かつての私は、あまりの自分のできなさに、レッスンに通うことすら尻込みしてしまっていた。他に出費もあるなかで、自分の音楽に金をかけるだけの価値が見出せなかった。経済的な事情を言えば、人生の中で今がいちばん生活に余裕がない。バイトにせよ自分の個人事業にせよ、「儲かる」などとは言えずまさに糊口を凌ぐので精一杯だ。奨学金は無利子で借りることができたけれど、将来の仕事と収入があるとも限らないのに債務だけが毎月きっちり、数年間にわたり数万円増えていく。冷静に考えれば、当然月数千円などという固定費は考えられない。

 そう、もしかしたら私はこのまま独り野垂れ死ぬのかもしれない。我が国の文科行政も、確実にその未来をアシストしてくれている。であるなら、いまこそ「やってみたい」と思うことに手を出せる最後のチャンスとも言える。だから、飽きるまで、あるいは金が尽きるまでは、その範囲内で可能なことはやってみようと思ったわけである。

 幸いなことに、下宿から15分の場所に教室が見つかった。とりあえず今は2週間に1度のペースで、教本と練習曲をチマチマと進めてもらっている。改めてきちんと習うと、どれほど自分がヘタクソかが分かる。しかし、独学より指導のプロについたほうが、結局はきちんとしたものが身につくのだ。自分が指導することを仕事とするようになってから、余計にそのことを痛感する。

 実は楽器に関して言うと、先日バイト先の小学校で音楽のゲストティーチャーなるものを務めてきた。雑談でうっかり音楽科の先生にヴィオラをいじっていることを話した結果、「子供たちにヴィオラの音に触れてもらいたい」と思わぬ打診を頂いたのだ。大したことはできませんが……と存分に言い訳をしたうえで、ごくごく簡単な曲を弾いて音の特徴を感じてもらったり、「第9」の4楽章を題材に対旋律としてのはたらきについて扱ったりと、できるだけのことをしてきた。もちろんえらいこと緊張したし、盛大にとちったが、それでも子供たちがこの見ず知らずの楽器に興味を示してくれたので、やってみてよかったなあと思っている。

 もしかしたらどこかでやる気が途絶えるかもしれないし、単純に忙しくてそれどころでなくなるかもしれない。でも「学生」のステータスを手に入れたのだから、それは存分に活用しなくてはならない。どうやらこの不安定で非生産的な生活は、安定した生活を送る人たちが時として羨むものであるらしいのだから。